やはり環境を変える事はいい。
グダグダ考えてるよりさっさと環境を変えたらよかったと後悔している。
でも時間の浪費とは思っていません。
家賃と電気光熱費で毎月5万。それと食費で3万。携帯代で1万。まぁ10万くらいは稼がないといけないですね。
27年間実家にいて最強に甘えすぎた。母親の思うような未来は僕は進まないと思うけど、自分の人生は自分で選ぶ。それで周りの人がどう思うかは周りの人の問題。
親は「実家を離れるのなら、もう家に頼ってきたらあかんで。お金の援助は一切しないよ」と言ってる。
これを聞くとなんか緊張感が沸いてきて、あぁ本当に自分一人の力で歩んでいかないと駄目なんだなぁと思う。
怖いな、いやだな、助けて欲しいと一瞬思うのだけど、実家での生活は精神的に耐えられないので、引越しはして良かったと思う。精神的に耐えられないというのは、何かしたい、何か行動したい、自分を変えていきたい、と思っているんだけど、緊張感がないので、行動ができない。あたまの中で考え事のループ。
自分は弱い人間なので、こんな事を言うと自分にプレッシャーがかかるのだけど、親に助けてもらうよりも、俺が助けられるようになりたいと思っている。
僕はどっちかというと職人・芸術系の道に進もうと考えている。これは吃音があるからではなく、吃音関係なく。僕は少し前、営業で成績を残してNO1になり、書籍を残したいと考えていた。吃音者に勇気を与えられる生き様ができれば最高だと思うし、それで本当に死ねるから。これは素晴らしいことなんだけど、僕は吃音関係なく自分のやりたい事を考えたときに、やはりただ単に営業といいうような事はしたくない。でも芸術系の仕事で自分に技術と知識があり提案営業ならいいとは思っている。僕は吃音関係なく、感覚に言葉がついてこないときがあり、自分の思いや感覚を言葉ではない違う何かで表現するほうが向いていると思う。例えば、僕は閉所恐怖症ももっていて、たまに魂・精神が自分の中に閉じ込められていることに窮屈を感じて(一生自分という役をしなければならない)、頭おかしくなりそうになって、外に走りに行った時、沿道に木々がそびえ立っていて、空を見るより、その木々に引き込まれるような、何だろう、言葉ではいえない、壮大感、人には与えてもらえない安心感を感じた。そういう自分の感覚センスを頼りに何かを表現する仕事がしたい。これは吃音から逃げているわけではない。逃げているというか、できるだけ吃音をいれずに考えて出てきたこと。人生1回きり。
吃音関係なく職業を考えることは大切だと思う。また吃音でもやれるんだという気持ちで頑張ることも素敵だと思う。吃音関係なく仕事選ぶか。吃音を反動にして仕事を選ぶか。結局はどんな本を読んでも、最後にきめるのは自分。本とか人それぞれで違うこと言っているから、その矛盾でこっちは何をしたらいいかわからないわけ。だから暫定的でもいいから自分の考えをもって、自分の大切にしたい事を考えて、自分の美学をもって進んでいくしかない。100パーセントの気持ちで職業を選ぶ幸せな人などいない。矛盾を感じながら進むしかない。
多分茨の道にはなると思う。警察官になったり、教師になったり(教師はでも1回くらいしてみたいな)、サラリーマンになったほうが多分楽。就職ができないというわけではなく、多分心の底でそんな仕事やりたくないって思っているだけだったんだと思う。自分に能力がないのではなく、自分の心を感じていなかっただけな気がする。吃音者に勇気を与えられるような生き様ができれば死んでもいいとはマジで思う。何千年も前から吃音者はいて、現代も吃音者はいて、これから先も吃音者は生まれ続けるだろう。吃音者は人生に迷い、死を選びたくなるときもあるだろう。そんなときに勇気を与えられるようなものを残せれば最高じゃないすか。ずっと将来の吃音者にエールを贈ることができるなんて。これはエゴかもしれないが、こんな気持ちはある。
でもまずは大志を抱きすぎずに、まず自分のまわりの人を幸せにできるような人間になりたい。
殴り書きで見にくくてすいません。