だって日々話すから。話すという事は息をするという事だから。
親父も吃音者で、よく「吃音者っていうのは地上にいても溺れているんや」と言います。
調子がよくても、ちょっと人前で派手目に吃ると、そこから一週間くらいはず〜と調子が悪くなる。
自分と対話していく中で、階段を一歩ずつ登っていっても、すぐに階段の一番下に戻される。
悩みの螺旋。小学生から僕は吃音でした。
僕は昔、乙武という人の「五体不満足」という本を見た時、障害者が妙に明るくて何か違和感を感じた。五体不満足でも吃りじゃないからいいねとかも思ってたかな。そのような事を言ったら親に罰が当たるでと怒られた。
でもやっぱり乙武洋匡は素直にすごいなと思う。障害者なのに明るいからだけど、その心の持ち方はすごいなと。
僕が最近思うのは、乙武さんのようにふるまう事が吃音者の目標、いや通過点であるという風に思っている。別に乙武さんのようにふるまおうとするのではなく、まず心がそこにあって、そこから自然にか前向きにか、彼のようにふるまえたらいいなと思う。
例えば他人の視線で見た時、吃るのを気にするあまり、自分の言いたい事も言わず、いつも黙って被害者面しているのでは、少し違う気がする。誰でもやっぱり明るい人が好きで、そういう人に惹かれる。(明るい人というのは別によく話す人という意味ではない)
僕もブスっとしてる時が多いけど、話しかけられたり、にこにこ話しできたらやっぱり嬉しい。
吃ってもいいから、自分の話したい事を話す。少しずつでもいい。自分はこういう考えだよ、俺はそれは別に面白いと思わないよ、自分の世界観を作る。人間関係っていうのはそこから始まるではないかな。そこからあの人好き、嫌いがあって。合わない奴とはドライでいい。嫌いな奴には嫌われたらいい。吃音の事を悪くいうような奴とは一緒にいてもストレスかかるだけ。
まぁたまに悪気が無い人もいるけどね。
あと僕が最近気をつけているのが、答え探しをやめようってこと。
よく吃音と友達になろうとかって聞いて昔は「フンッ」って思ってたけど、今は少し分かるような気がする。
それはこの言葉を知ったら、このメンタルを知ったらって事じゃなくて、結局は悩み続けるってこと。(吃音の事だけではない、他の悩みも。吃音がなおっても他の悩みが絶対でてくる)そういう覚悟・あきらめという心持ちを持った中で前進してこうという事が吃音と友達になるという事なのかもしれない。
そういう覚悟がないと、いつまでも答え探しをしてしまい、それがやっぱり答えじゃないとか思って、またへこんでしまう。
だから、そういう覚悟・あきらめ・絶望を持ちつつ、毎日音読をしたり、集まって勉強会をする。それ以外は吃音の事はあまり考えずに、その思考を他の事に使う。
後は純粋に楽しもう。
女の子とはじめてデートして、吃るまいと思って会話を続けてもいい。大勢の友達の前でその場の空気を壊すまいと会話を少なめにしてもいい。でもその中でも質問したい事を聞き、言いたい事を言おうとしたらいいじゃない。吃っても関係あらへん。自分にわがままになって楽しんだらいいじゃん。
そんな感じで生きていきたいと最近思っています。もちろん自戒です。
ラベル:吃音 乙武洋匡